播州地方は多木製肥所、日本毛織、三菱製紙、亀甲萬醤油など、明治の開花期に歩調を合わせ誕生した名門企業が数多く存在する歴史のある工業地帯である。昭和2年、丁稚奉行で機械仕上組立工としての技能を磨いて修業先の京都から帰ってきた大庫源次郎が、修理業を生業とする大庫鉄工所を開業した。当時、多木製肥所(現:多木化学株式会社)に多木久米次郎さんという化学肥料メーカーを一代で築かれた稀有な経営者がご健在で、源次郎をこよなく可愛がられ、「おい源やん、お前が鉄工所やるんなら、うちの修理をやれ。肥料の原料となる硫安、アンモニアは鉄を腐らしてしまう。修繕を終始やらなあかん。お前が鉄工所やるならうちの修繕をやれ。」昭和の大不況の中でのうぶ声なのに、お得意先に恵まれた誕生だった。
昭和15年~20年の戦争による軍需要品生産期を除いて、修理業に徹してきた。お得意様が歴史ある企業だから、肥料機械、紡織機械、製紙機械の各メーカーも時代と共に製品が変わったり、製造中止になって入れ替えができない。やむを得ず、大庫鉄工所では鋳造工場をつくり、お客様の要望に応じてポンプ、送風機なども手づくりで造らざるを得なくなった。紡織機メーカー、ポンプメーカー、送風機メーカーなどに近い形態の工場になった時代もあった。
そして終戦から10年を経た頃から経済の復興が本格化してくる。わが社も専門メーカーへの模索が始まるのである。過去の経験から運搬機械(コンベヤ)に注目した。時あたかも生産の近代化が叫ばれ、運搬の合理化(マテハン)を生産の中に取り入れていこうという大きな流れが見えてきた。そこで、従来の修理業をやりながらコンベヤメーカーへの転身を積極的に進めた。高度成長期に入って来てコンベヤの仕事が増えてくる。どんどん商品開発も手掛けてコンベヤメーカーとして歩んでいける目処がついてきた。昭和38年頃である。
こうなると、修理業と併業では無理が出てくる。といって創業以来取り組んできた修理業を捨てるわけにはいかない。そこで、修理業は別会社をつくって事業を継続していこうということにした。いうまでもなく修理・メンテ事業は、お得意先の設備機械の再生である。専業メーカーがどこにもない、同じ機械が二つとして存在しない…修理するしかない。それには技術技能の錬磨が不可欠である。この積み重ねが専業メーカーに劣らない商品を生み出す。こうしてオークラ工業は「ものづくり」の歴史を紡ぎあげてきた。創業以来の修理でお世話になったお客様との関係は、今後も大切に残していきたいという一心からオークラ工業は設立に至ったのだ。